この戦いはブログに残す

読みに行きますよ、必ず

お前のそこがあかんねん

そういうとこやぞ

うん、またなんだ、すまない

 

 

君は言葉では表せない、「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。

 

バーボンハウスだし今度からブログの出だしはこれでいこう。

 

いつの頃からそうだったのかわからないけれど

何かを評価する時にはなるべく、ここがクソだから全部クソ!

みたいな評価はなるべくしないようにしている、そうでない時もあるけど。

 

特にある程度関わった人物に対してはそうで

僕が気に入らない部分を持っている人物でも、その人物そのものを嫌いになる

ということはあまりしないようにしている。

しているというより、なんとなくそうなっている。

 

今友人と呼べる人物達にも、お前ほんまそういうとこやぞ

と言う気持ちになることはある。

 

当然根本的に合わない人物はいるし

気に入らないとしている部分が毎回のように見受けられるのなら

ストレス発生源にしかなり得ないので、グッバイという感じではあるが。

(そもそも友人と呼べる段階まではいかないよね)

 

何故こういう思考回路になったかを少し考えてみた所さん

まずひとつとして、恐らく自分がいい人間ではない、という思いから来ている気がする。

 

無難に過ごしているつもりではあるが、完成されているとは到底思わないし。

もし仮に、いい人間以外認めねぇぜ、という世界だったとしたら

まず間違いなく僕は排除されてしまうだろう、そしていつかはその考え方が鋭利化していって

排除していた側の人間も排除される対象となる日がくる、気がする。

因果応報というか、悪口とかもそうだけど、巡り巡って自分にくるという考え方がどこかにある。

 

僕が悪態付きまくって、あいつのあそこはマジクソ、とか言ってると

逆にお前のここでマジクソだよね、と言われた時に僕は反撃できないので

じゃあ大人しくしておこう、という感じだ。

 

以前友人Tにこういう、事なかれというか日和見というか

例え友人であろうと悪いと思うところに対して、全く指摘とかをしない

解決をしたほうが関係的によりよくなるかもしれない物を放置している僕を見て

お前は冷たいやつだと言われたことを思い出す。

 

これがひとつと、もうひとつは

その人物に対する正当な評価、としてどうだろうか?

というところから来ている、気がする。

ここで言う正当な評価というのは、僕視点での評価なので云々

 

仮に僕がもうなんか根本的にとても気に入らないAという人物が居たとして

そんなAが困っている人を助けている所(自分自身が助けられたでも可)を目撃したとしよう

ここで手のひらを返してAという人物をとても気にいる、ということは多分ない

 

けれども、Aがした「人を助けた」という行為は絶対に評価されるべき、だと僕は思う

(人を助けるという行為が評価される世界線の話です)

 

Aは気に入らないが、Aが人助けをした、ということは僕は賞賛すると思う。

なんというか、その人物の全体ではなくて一部を個々に評価していく、ということが僕にとっては重要

な気がしている。

 

人物を部分部分で評価して、総合的に付き合いをしていける

となれば、僕はその人との関係を悪くするようなことは避けていくと思う。

 

でもまぁ気に入らないやつが何をしても気に入らねぇという気持ちはわかるし

僕も毎回こういう思いでいるわけではない。

なんかこう、死ね! と思う時はある、しょっちゅうある。

 

君たちもあるだろう?

 

殺伐とした世の中でそういう気持ちを忘れないで欲しい。

そう思ってこの記事を書いたんだ、じゃあ注文を聞こうか。