仮にラーメンが食べたくなったとしよう
うん、またなんだ、すまない
仏の顔もって言うしね
身内が死んだ。
死ぬ前日夜には普通に会話を交わし、その翌朝もすやすやしているところを見て出勤した。
人はいつかは死ぬ、それは当然だけれども、さっきまで生活していた身近な人物が突然いなくなるというのはまぁ、なんだか不思議な感じである。
報せを受け帰宅した僕の顔を見るなり同居人の一人は大声で泣き出した。
続々と親族が集まり葬儀の段取りをしていく中、同じように結構な人物が泣いてくれていたように思う。
その中かなり血縁関係が近い僕は全く泣けずにいた。
泣けずにいたというか泣きたいわけでもなかったが、なんとなく泣くかな~とか思っていたんだが、そんなことはなかったぜ。
正直に言って、こいつらなんでこんな泣いてんだ……とは言わないが、それに近しい感情は抱いていた。
だって、そりゃあ死ぬよ、こんな突然だとは思わなかったけど、もうどうしようもないだろ、死んだんだから。
正直、え? お前泣くの? って、そこまで号泣するとは思わなかった、という人物もいて
他人の感情の機微はそれなりに読み取れるつもりでいたけどまだまだだな、とか思っていた。
でもなー車出すのもなーあとカロリーガー
じゃあ僕が身内の死に全くなんとも思わないのかと言われると、そうじゃないんだよな
普通にショックだし、悲しいよ多分。
ただもうどうしようもないな、と言う思いが強く、じゃあこの先の対応なにすればいいのか、みたいなことばかり考えていた。
親戚の年上の方にも色々言われた、「悲しいと思うけどしっかり」とかね。
全部しょーもないなぁとしか思わなかった、しょーもないというのは言ってることの内容で、声掛けてもらえる行為自体はありがたいよ。
(行為と好意がかかった激ウマなんとか)
でもなんというか、ありがたいと思う反面、多少気を効かせてやろうと思えば当たり前に取る行動で、それを受ける側としては
まぁそう言ってくるよね、くらいに思ってしまうんだよな。
う~ん、もしかして僕って異端?w
割と結構クズだとは思いますけどね、でも多少はみんな思うでしょ!?
あ~めんどくさいな、我慢するか、食べたいけど
こうして思い返してみると、ありがたいという思いとしょーもないという思いが同居するように思う。
ラーメンを食べに行きたいがその間の手間を考えて、行きたいがめんどくさい、という気持ちが同居するように
僕も悲しいが、この先のことや、どうしようもないという気持ちが同居した結果
悲しみは溢れず涙に変わることはなかった、という話だな。
泣いていた人たちは、悲しいやショックが優先されたのだろう、泣くか泣かないか
この人達と僕との違いはその差かな、含有量の差というかね。
これはいつも思っていることで、過程を無視した結論だけなら相反する心情は同居すると思うんだよな。
絵を描きたいが描きたくない、みたいなのとかさ。
球体の中心からそれぞれの気持ちの方向に線が伸びてるイメージだ、真上に伸びる気持ちがあれば真下に伸びてる気持ちもまたあると思うんだよ。
だからやりたいと思ってるならやれよ、みたいなのはあんまりね、好きじゃないね(僕が言われたくないので)
ただそういう時にどうすればいいか、もう実利を徹底的に突き詰めるしかない、冷静に先々を考え有益な方を取る、これしかない。
つまり……ラーメンを食べに行く。必ずな。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないでほしい。
そう思ってこの記事を書いたんだ、じゃあ注文を聞こうか。